中田厚仁氏没後20周年追悼式典をUNVが開催

中田厚仁氏没後20周年追悼式典をUNVが開催
2013年11月14日 東京

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中田武仁UNV終身名誉大使(右)と敬子夫人(中央)と日本政府を代表して挨拶した香川剛廣外務省地球規模課題審議官(左)

国連ボランティア計画(UNV)は、11月14日、東京青山の国連大学本部ビルにて、1993年4月8日にカンボジアで国連ボランティア選挙監視員として活動中に殉職した中田厚仁さんの没後20周年を記念する追悼式典を開催しました。会場には今年1月にUNV事務局長に就任し、3度目の来日を果たしたリチャード・ディクタス氏、日本政府の代表、厚仁氏と当時活動を共にした日本人国連ボランティア経験者、そして、厚仁氏の父上である中田武仁UNV終身名誉大使ご夫妻等約50人の関係者が参加して行われました。

今回の式典は、厚仁氏と共に国連ボランティアとしてカンボジアでの選挙支援に従事した、坂口直人衆議院議員の呼びかけにUNVが答え、カンボジアでの国連PKOによる民主的選挙の実施、そして厚仁氏の没後20周年を機に厚仁氏の功績を讃え、世界の平和と持続可能な開発に対するボランティアリズムの貢献を認知する目的で開催されました。

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UNVを代表して挨拶するリチャード・ディクタスUNV事務局長

式典の冒頭で、リチャード・ディクタスUNV事務局長は、厚仁氏の功績を讃えるのと同時に、ご子息の遺志を継いで、世界のボランティアリズムの認知向上のために国連ボランティア名誉大使として2008年まで15年間活動をした厚仁氏の父上である中田武仁氏の国連全体、世界のボランティアリズムの認知向上に対する貢献について改めて感謝の意を表しました。「遠い昔の歴史について人々は知っているものだが、20年前の出来事については容易に忘れてしまうものである。特に国連は、中田親子が国連に対して果たした役割を決して忘れてはならない」とディクタス事務局長は、述べています。

日本政府を代表して挨拶をした香川剛廣外務省地球規模課題審議官は、1993年当時、外務省国連行政課の首席事務官として国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を直接担当していたという経験を交えて、厚仁さんの存在がいかに当時の国連PKOに対する日本の世論に影響を与え、その後の日本の平和構築に対する取り組み、ボランティア活動についての考え方に指針を与えたかについて述べました。

その後、中田厚仁さんと共に当時カンボジアの選挙支援に参加した日本人国連ボランティア8人から当時の厚仁さんの思い出、そしてその後のご自身の活動等についてメッセージをいただきました。

当時、プノンペンでの2カ月間の研修時に宿舎のルームメイトだった、現衆議院議員の坂口直人さんは、当時の厚仁さんを「誰とでも友達になれる特別な能力と仕事に対する集中力にたけていた」と回述し、当時赴任地としては最も危険と言われていたコンポントム州への派遣について、「せっかく機会をつかんだのだから、一番平和に貢献できる所で活動したい」とオファーを前向きにとらえていたというエピソードを紹介しました。阪口さんは、「中田さんの生きざまによって、日本の社会の中に、世界の平和のために、貧しい国のために働くべきという価値観が芽生えた」、「経済発展に注目しすぎの現在の日本社会の中で、厚仁さんの存在の重要性、価値観を再確認し、国会議員として推進してきたい」と述べました。

当時、大学教員を休職して、カンボジアでの国連ボランティアに参加し、プノンペンのUNV事務所で人事を担当していた横山和子東洋学園大学教授は、当時、厚仁さんの訃報を最初に聞いて、対応をしたこと、厚仁さんの死亡診断書の名前が間違っており、ドイツ軍PKOの医師に再発行をさせたエピソードなどを紹介しました。また、当時国連ボランティアとしてカンボジアに行った日本人の多くが帰国後の再就職に苦労をしたことが述べられ、日本政府に対して、休職・復職の制度を充実させて、多くの日本の市民が国際的な人道支援活動に参加できるような環境を整えてほしいという意見が述べられました。

現在JICAの選挙支援専門員として「アラブの春」以降のエジプトで活動を続ける黒田一敬さんは、当時、厚仁さんとカンボジアでの任務だけでなく、その後の国連ミッションへの参加、特にモザンビークの選挙支援についても語り合ったと言っています。また現在黒田さんが勤務しているエジプトには、5人の元UNTAC国連ボランティアの人々が、引き続き様々な組織に所属して選挙支援に携わっており、厚仁さんの遺志を継いでいることが紹介され、今後も厚仁さんの理想を胸に抱きながら、自分に与えられた任務を遂行していきたいと述べました。

リベリア、南アフリカ、ソマリア、タンザニア、ルワンダ、コンゴ民主主義共和国、ジュネーブ等で国連ボランティア、そしてUNHCRの職員として活躍し、現在立教大学で教鞭をとっている米川正子さんは、厚仁さんに国連ボランティアに応募することを当時勧めてしまったことに罪の意識、責任を感じていた米川さんを非難することなく、見守ってくれた中田武仁UNV終身名誉大使に対する感謝の意が表せられました。そして、今回の式典が、厚仁さんの思い出話だけでなく、彼の考えていた平和について考える契機になってほしいと述べました。

UNV東京事務所で、中田武仁UNV名誉大使(当時)の公務、コソボや東ティモールへの邦人国連ボランティア派遣に携わった経験もある田村啓太さんは、当時、厚仁さんが、コンポントムへの派遣について前向きで、仕事ができることが楽しみで仕方がないと目をキラキラさせて話し、常に非支援者と同じ目線で、地元住民に寄り添いながら活動していたというエピソードを紹介しました。また、厚仁さんの存在を契機にして、たくさんの若い日本人が、国際平和のために国連ボランティアに応募しており、厚仁さんの遺志が継がれていると述べました。

ボスニア・ヘルツェゴビナや東ティモール等で平和構築の支援活動に従事し、現在ジャーナリストとして活動している渡辺和雄さんは、当時、プノンペンで2カ月間、クメール語等の研修を受けていた時に、厚仁さんが、現地のUNV事務所の手伝いも買って出ていたというエピソードを紹介しました。また、現在国連ボランティアだけでなく、当時、カンボジアのミッションに関わった関係者を集めて同窓会をすること、カンボジアPKOに関わった人たちのその後についての本を企画していることを紹介していました。

カンボジア協会の理事でもあり、1992年以降、引き続きカンボジアの支援に携わっている木村憲さんは、カンボジアの選挙支援からすでに20年の月日が経っているにも関わらず、20年前の出来事については鮮明に覚えていると述べました。木村さんは1992年に日本人国連ボランティアの第一陣としてカンボジアのUNV事務所に派遣されましたが、第3陣としてカンボジアに入国した厚仁さんとは多くの接点はなかったそうですが、むしろ、父上の中田武仁氏の活躍に勇気づけられたし、武仁氏を通じて厚仁さんの人柄を理解したと言っています。木村さんは、今後もカンボジアに対する支援を通じて平和への希望を捨てずに活動に取り組んでいきたいと言いました。

現在AMDA開発機構の理事長として活躍中の鈴木俊介さんは、カンボジアでの厚仁さんの瞳の輝きと困難に立ち向かう意欲が印象に強く残っていると言っています。当時カンボジアに集まった国連ボランティアの中には、厚仁さんと同じ志を持った同士が集まっており、その当時の気持を持ち続けながら市民が活躍できるODAの場を見つける活動を市民社会組織を通じて続けていると述べました。

元国連ボランティアによるメッセージの後、当時UNV事務局次長を務めていた長谷川祐弘元東ティモール国連事務総長特別代表から、厚仁さんがコンポントム州の国連選挙監視事務所で掲げていたカンボジアの国旗と国連旗が、中田武仁国連ボランティア終身名誉大使に手渡されました。この旗は、今年8月にフランスでUNTAC関係者が集まり、厚仁さんの追悼の会を開催した時に、会の主催者であり、当時厚仁さんとコンポントム州で活動を共にしていたスティーブン・キンロッホUNDPソマリア事務所代表によって長谷川氏に託されたものです。
最後に中田武仁UNV終身名誉大使によるスピーチが行われました。 中田大使は、20年は光陰矢のごとしというが、自分にとっての20年は長く、重いものだったと述べられました。 中田大使は、厚仁さんの死にいかにご家族が向き合ったのかについてその思いを述べられ、厚仁さんの死が平和の実現のために世界中から集まった国連ボランティア、国連のカンボジアでの活動に影響を与えないように配慮し、遺体を日本に移送することをやめ、カンボジアの地で火葬することに決めたというエピソードを紹介しました。 また中田大使自身が、厚仁さんの死後、ご子息の遺志を継いで、国連ボランティア名誉大使として、2008年まで歩んできた道のりについて述べられました。最後に「世界中のすべての生きとし生けるものが平和にその命を全うする権利がある。そしてその権利を実現するためには、時として多くの痛みを人々が共有する必要があり、その権利を守るために、尊い命をかけた世界市民がいたことを覚えていてほしい。 我々一人一人は常にこの世で必要とされており、このボランティア精神が世界中に広がることを願っている」と締めくくりました。

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ご子息の追悼式典で挨拶をする中田武仁UNV終身名誉大使

中田厚仁氏
中田厚仁さんは1992年より、465人の国連ボランティア選挙監視員の一人として国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に25歳の若さで派遣され、カンボジア初となる国政選挙実施の最前線で活躍されました。しかし、1993年4月8日、カンボジア中部コンポントム州で、国連ボランティアとしての任務遂行中に襲撃にあい殉職しました。草の根で地域社会の民主的選挙プロセスの強化を支援し、カンボジア国民に対して選挙と民主主義の重要性を広く伝えたその功績が認められ、2002年に国連ダグ・ハマーショルド賞が、厚仁さんの父上である中田武仁さんに授与されました。

中田武仁国連ボランティア終身名誉大使
1993年4月、ご子息である中田厚仁さんが国連ボランティアとしてカンボジアで活動中に殉職された後、父親の中田武仁氏は、厚仁さんの遺志を継ぐため、第一線のビジネスマンとしてのキャリアを辞し、自らも国際平和のためのボランティア活動を開始しました。1993年6月には、国連ボランティア名誉大使に任命され、これまで30 カ国以上の国々において国連ボランティアの活動の現場を訪問したほか、講演など様々な機会を通じて国連ボランティアの活動の紹介やボランティアリズム推進についての啓発を行なってきました。2008年4月8日にUNV名誉大使を勇退されましたが、ご自身のライフワークとしてボランティアリズムの推進のために日本国内で活動を続けられています。