山名 俊之さん:ソマリア UNDP、コソボ UNMIK(中小企業育成、平和構築)

山名俊之 さん
『UNV活動に参加して~ソマリア&コソボ~』

山名俊之さんは、定年を迎えられた後、ソマリアとコソボへ2回、UNVとして派遣され、ビジネスの世界での豊富な経験をもとに活躍されました。

写真:コソボのレンガ工場にて。修復作業に携わる技術者と写る山名さん(左から3人目)。

1.まず、UNVに参加した動機やきっかけ、その経緯について話していただけませんか。 

定年後(1995年1月)、しばらく、『毎日が日曜日』の生活でした。そんなある日、新 聞でUNVのロスター募集を知ったのです。募集要綱には“…定年退職した国際ビシネス の経験者を積極的に歓迎したい…”と書いてありました。 私は37年近く貿易の仕事をし、10年余り海外にも駐在した。幸い健康体で、気力・体力力も衰えてない。早速、“…私のこれまでの職業経験と知識が、途上国の人々のお役に立つなら、ぜひお手伝いしたい”と動機に書いて応募。

後日、ジュネーブから来日したUNV本部の面接官とのインタビューも終えました。それから数ヶ月(1996年4月)ほど経って、思いがけなくジュネーブからの電話、ソマリアでUNV活動に参加しないかという打診でした。二つ返事でOKしました。

2.初めは、内戦後ソマリアの港湾施設の復興プロジェクトに赴任されましたが、どのような内容の任務を任されていましたか?具体的に行った活動は?

1996年6月から1998年6月まで、アデン海に面したベルベラという政府直轄港でマジメント・スペシャリストとして活動に参加しました。老朽化した港湾施設を修復し、商業港としての効率化と機能向上を計るというプロジェクトです。私の任務は港の管理体制を改善することでした。ベルベラ港は、年間入港船舶1000隻、ヤギ・羊など家畜の輸出が300万頭、食料品など輸入貨物が30万トンの取扱量で、北東アフリカのハブ港の一つ。しかし、組織体としては、およそ管理とは無縁の“烏合の衆”でした。正確な職員数はだれも知らないありさまです。出勤簿はない、就業規則もない、記録・業務書類が保存されない。ないないづくしで、ひどい状態でした。

私の活動は、文字通り、管理体制ゼロからの出発です。まず、広大な港内を走りまわって、職員一人ひとりに面接し、名簿を作り、職員数を確定することからスタートしました。続いて、組織体制を確立し、適正な人員配置を行い、命令系統を統一しました。この他に、二年間に行った主な活動項目をあげますと、給与体系の整備、輸出入貨物の統計表、就業規則の作成、業務書類の書式化とその取扱・整理・保管の指導、セミナーの開催などがあります。

えっ、活動の成果ですか?!

手元にあるジュネーブへ提出した最終レポートのコピーを見ますと、“原始的な集合体から脱皮、一応、企業組織としての管理機能が果たせるようになった。荷役作業の効率も活動前に比べて20%強アップ、15%の増収につながった”と書いてあります(笑)。

*ソマリア:アフリカ北東端に位置し、インド洋に突出したその地形から「アフリカの角」と呼ばれている。

ベルベラ港内:荷下ろし作業を背景に同僚(インド人)と。

3.その後、2度目のUNVでは、コソボのレンガ工場で2年7ヶ月、マネジメントの専門家として活動されましたね。その要請の背景と山名さんの役割、現地の人々と一緒に取り組んだ仕事の内容は?

2度目は、2000年5月から2002年12月まで、コソボのレンガ工場でした。人道支援のため、日本政府が拠出した資金(370万ドル)による修復プロジェクトで、私の任務は経営管理の技術指導でした。当時、コソボは国連の管理下(UNMIK)にあり、30ある地方自治体の行政は、国連が派遣した行政官によつて行われていたのです。レンガ工場が在るスケンデライ市へは、当時ボンのUNV本部におられた日本人の国連職員が行政官として派遣されて来ていました。実は、この方は私のロスター応募時の面接官だった人で、コソボへ来ないかと声をかけてくれたのもこの方でした。

このレンガ工場は市場経済化をめざしていたのですが、ヒト・モノ・カネの管理はかなり“アバウト”。生産工場でありながら、生産部門よりも管理部門のほうが頭でっかちという典型的な社会主義的経営形態。遊休作業員も随所に見られ、製造原価や販売価格の計算基準もないといったありさまでした。ですから、私はヒト・モノ・カネの管理面を一つ一つ診断して、“アバウト”の是正に取り組みました。在任中に行った主な活動項目としては、管理部門のスリム化、生産工程の見直し、生産ラインの組替え、人員の適正配置、品質管理の強化、マーケティングの指導、会計監査シィステムの導入、ムリ・ムダ・ムラの排除運動の推進などがあります。活動の成果?工場技術者4名をJICA(北九州)へ1ヶ月の研修に派遣することができて、彼らにものすごく喜ばれました(笑)。
*コソボ:バルカン半島にあって、ユーゴスラビア連邦セルビア共和国のコソボ自治州

写真:修復作業終了後最初に生産したロットを背景にプロジェクト関係者たちと記念撮影

4.UNVとしての活動の中で、企業で培われた経験が十分に活かされたと思われる点はどのようなことですか?

そうですね。一言でいえば、海外経験が豊富だったということでしょうか。

先にもいいましたが、現役時代、私は通算10年余り海外に駐在しました。ですから、多くの異文化に接し、多くの人々と出会い、多くのことを学びました。例えば、海外でビジネス活動をする際に“してはならない”こと、逆に、“しなければならない”ことなどです。しかもその内容も国によって微妙に違ってきます。

その間、7年近く、私は支店長として海外支店(パキスタン・中国)の運営と管理を任されました。この間、経営管理の何たるかを学び、そのノウハウを習得し、それを実践してきました。

ビジネス活動とUNV活動とは根本的に違います。ですから、初めてUNV活動に参加したとき、価値観の違う途上国の人々と協働することに、戸惑いや違和感はありました。しかし、活動に支障をきたすことなく所期の目標を達成することができたのは、これらの海外経験が大いに役立ったと思います。

5.逆に苦労されたこと、思うように行かなかった点、見舞われたハプニングなどについて教えて下さい。

活動の面では、通信手段が極めてお粗末でしたから「ほう・れん・そう」(報告・連絡・相談)に苦労しました。コソボでは電話回線が絶対的に不足していましたから、電話はあまり役に立ちません。ソマリアに至っては、通信施設は皆無の状態でしたから、“自分の足”だけが唯一の通信手段でした。

生活面では、水と電気に泣かされました。ソマリアでは水は毎日ドラム缶に買い溜め、コソボでは、水道の水が一滴も出ない日が何日間も続きくことはざら、もらい水の生活でした。深刻だったのは、電気の供給不足のため、思うように冷暖房が使えなかったことです。ソマリアでは体温以上にもなる部屋で寝なければならない夜が何日も続いたし、コソボでは冷凍庫としても使えそうな氷点下の真っ暗な部屋で、明かりに灯したローソクの炎で指先を暖めたこともあります。

ハプニングはいろいろありました!(笑)。注射針がないといって、割り箸ほどもある大きなラクダの検疫用注射針で注射されたこと。宿舎の敷地内に埋もれていた旧ソ連軍のミサイルと、何ヶ月も同居していたこと。チンピラ5人に襲われたとき、体が無意識に反応した話に尾ひれが付いて、仲間内で“ミスター・サムライ”の異名を取ったこと(因みに、私は柔道・空手の有段者)。砂漠の空港で迎えの車を待っているとき、空腹の親子とおぼしきハイエナ3匹に襲われかかったことなど…枚挙にいとまがありません。

6.UNVの醍醐味、ボランティアーとして活動したからこそ得られた経験などがあれば。

UNV活動は技術指導の一方通行ではありません。私にとって、その醍醐味は“ギブ・アンド・テイク”です。私は彼らにノウハウを与えることにやりがいを覚え、そして、彼らと協働することから第二の人生の生きがいを得ることができるからです。

活動したからこそ得られた経験? そうですね、山はおろか丘にもあまり登ったことのない私がいえば、不謹慎だとお叱りを受けるかもしれませんが、山頂を極めた登山家の心境を味わった〔ような気がした〕ことでしょうか。「そこに山があるからだ」といって、エヴェレストを征服したのは英国の登山家マロニーですが、山頂をめざして一歩また一歩と登攀してついに頂上に立ちました。

UNV活動は登山に似ていると思いますね。技術の“持てる者”と“持たざる者”が協働して、一歩また一歩と目標に向かって前進して行く亀の歩活動だからです。歩調が合わずころぶことは二度や三度ではありません。しかし、七転び八起きしながらついに目標を達成したときの感動と充実感は、山頂を極めた登山家の心境に通じるものがあると思います。

7.これからUNVを目指される方、特に企業をリタイアされた後の第二の人生として参加を考えておられる方へのアドバイスがあればお願いします。

UNVを目指されるシニアーのあなたへ

“馬を水際へ連れて行けても、むりに飲ませることはできない”という諺があります。これは海外ボランティアを志す私たちにとって、とても味わい深い言葉です。

UNV活動は異文化の押し売りではありません。その国の文化を尊重し、その国の人々の目線にあわせて協働する亀の歩活動です。それは、また、寛容と忍耐と自分自身との戦いでもあります。

生活環境は激変します。健康管理を一層厳しくされ、あなたの豊富な経験と知識を途上国の発展のために活かして下さい。ご活躍をお祈りします。